互いに素

徒然草の下位互換

非リア充たる人々はリア充を叩くべきでない

リア充、なんと甘美なる響きであろうか。

「リアルが充実している」の略語であるこの言葉は多くの場合、「恋人がいる状態」を指す。

もちろん恋人関係の末期等であれば「充実」とは到底言えないかもしれないが、その他の期間であれば多くの場合充実しているとして問題ないだろう。

さしずめQoLの権化と言ったところである。

 

リア充、なんと哀愁漂う響きであろうか。

前述のリア充に否定の接頭辞「非」が加わることでなんともいえない、孤独、寒さと言ったものが感じられてくる。

 

そして基本的には、非リア充リア充を妬み嫉み嫉妬に狂い、Twitter等のSNSで罵詈雑言浴びせることが多い。

その状態に待ったをかけたい、これが本記事の主旨である。

 

ちなみにかく言う私(関東地方在住 17歳男性)は議論の余地なく17年間非リアである。(リア充であればこんな記事を書いてる暇があったら恋人との時間を楽しんでいるのであるから当然である)

 

多くの場合私のような非リアの意見は

「非リアが何か喚いてますよ笑」

で済まされるが今回はその限りではない。

非リアたる私が非リアに意見するのだ。これはいわば対等な立場、むしろ専門家による分析なのだ。どうか最後までお付き合い願いたい。

 

 

...

 

 

非リアはなぜリア充を叩くのか。

これは前述した通り嫉妬が主に起因しているものであると考えるのが自然であろう。

リア充爆発しろ」などの定型表現(もはやこれは非リアの鳴き声と化している)

「人前でイチャイチャするな、目に毒。」などの実害訴え型

「そもそも彼女(彼氏)に時間やお金を使うなんてもったいない」などの交際無駄論者

等々叩き方にもかなりの種類がある有様である。

なるほど確かに街中を見ると一定数、過度にいちゃついてる人がいたり、信じられない金額をパッと使う人たちも存在する。

一見すれば非リアの言うことにも一理ありそうである。

 

 

では以上を踏まえた上でなぜ我々非リアはリア充を叩くべきでないかについて話していくが、その前に非リアを

①以前はリア充であったが今はリア充でない

②生まれてこのかたリア充であったことがない

の二つに分類する。結局のところリア充を叩くべきでないという結論に変わりはないがこの2つのタイプは叩くべきでない理由が異なる。

 

①の場合

まずこの場合であるが、まず

「お前は頭打って記憶でもなくしたんですか?」

ということを言いたい。

このパターンであると叩くべきでない理由は明白であるが一応述べておくと、この場合は自分がリア充として、今自分が不快に思っていることそのものを体現していた可能性があるから、である。

こんなことを言うと「私はそんなことしてません」などと言う声が聞こえてきそうである。

僕はこの声には疑問を上げざるを得ない。

先程も例に挙げた「人目につくところでイチャイチャするな」を考えてみよう。

 

まず冷静になってそのようなカップルの様子を観察してみると意外にもそこまでいちゃついていない、と言う事実に気付くはずである。

確かに恋人繋ぎをして寄り添っていたり、「イチャつき」ともとれる行為自体は存在する。

しかしこれはあくまで行動の一部を切り取って観察した場合であり全体としてみるとそこまでいちゃついていないことが多い。

だってそうだろう、いつまでも恋人繋ぎで寄り添ったままで物事を進行できるように建物や道路、はたまたイベントなどは出来上がっていない。

そうした時には適宜離れ、ある程度の距離をしばらくは保つということも多い。

その程度だったらあなた方が「現役リア充」だったときにも流石に経験はありそうだとは思わないだろうか。

一瞬たりとも外出先で恋人繋ぎをしたことがない?

一瞬たりとも寄り添ってみたりしたことはない?

流石に心当たりが出てくるだろう。

 

リア充であった皆様であれば理解できるようになると思うが、SNSなどで矢面に立っている所謂イチャつきなどは長い交際という行動の中での切り取りであるということが多い。いわば行動の切り取りであり、非リアが叩くために都合のいいように解釈できる部分の総体であり、そんなものを根拠に叩くべきではないということが理解できただろう。

 

そう、我々非リア充が感じるイチャつきへの憎悪など、せいぜいその程度のことを局所的に観察し、拡大的に解釈してしまったが故に起こるものにすぎない。

ゆえに非リア充たるあなた方はリア充を叩くべきでないのである。

 

え?ここまで読んでも一度もそんなことをしていないって言えるって?

そりゃあご愁傷様。その場合は脳の検査に行くか、その彼女(彼氏)とかって定義されていたものが地球上に存在していたかどうか、もしくはその定義を一度調べたほうがいいかもしれないな。

 

②の場合

こちらの場合はこの中でも細かく場合分けが必要になるが今回はあくまでこのグループに属する人の最大多数が属する点について述べていく。よって以下のことが必ずしも当てはまるということはないしれないがご容赦いただきたい。

その点とは

「お前らは恋人を作る努力をしてきたのか」

である。

 

ここでいう恋人を作る努力とはSNSで「恋人欲しい〜」と呟くことでも二次元のキャラクターを勝手に嫁と定義することでもない。

「頭髪、服装などに気を使い、洒落たり清潔に保つ」や「異性と会話をし、深く関わろうとする」などのことである。

このようなことをなくして「自分に恋人がいないのは顔が〜」と騒いでみたり、あまつさえ「リア充がかくかくしかじかでうざい」などとほざく権利はない。

 

 

前述の「交際にお金を使うことが云々」とのたまうの人はこのタイプに多いと私は考える。

では本当に交際にお金を使うことは無駄であるのか。

 

まずなぜ交際にお金を使うことを無駄と考えるのか。おそらくそう問われた時に多い回答が「別れた後に何も残らないから」か「恋愛にそこまでの価値を感じないから」であろう。

なるほど確かに別れた後に関してその人につぎ込んだお金、というものは一見無駄に思える。関係も疎遠になったり、確かに金額に見合ったものが物質として残るかと言われれば疑問符がつく。

 

であれば自分のお金の使い道はどうなのか。

スポーツであったり勉強であろうか?

はたまた音楽であったりゲームであろうか?

新しい道具や自分を着飾る化粧道具や服だろうか?

今挙げた例は例外を許さずのちに何も残らなかったり、はたから見ればそこまでの価値を感じないものである。

 

スポーツや勉強にお金をつぎ込みそれを楽しむ、なるほど有意義に思える。

だがスポーツが嫌い、勉強が嫌いと考える人から見れば無価値である。

ゲームや音楽、服や化粧道具、身近な道具にお金をつぎ込む、なるほど生活を豊かにしそうである。

だがそれに飽きた、ないしは壊れた、使い切った場合はどうであろうか。捨てたり売ったりするかもしれないが一体何が残ったというのか。

 

結局はお金の使い道などというのは、立場、趣味によって大きくその価値の見方が変わる。

人は皆そこに魅力を、ある種の心の拠り所を感じるからそれにお金をつぎ込む。何も残らないから無駄という理論はそこに介在し得ない。

 

自分が満足できるか、否か

 

論点はそこなのである。

そしてたまたま恋人に魅力や心の拠り所を見出したものが、彼あるいは彼女のために惜しみなく投資をするのである。

その魅力などを批判する権利は自分たちに何か好きなものがある限り存在し得ない。

そう非リア充リア充叩くべきではないのである。

 

...

 

 

ここまでつらつらと述べてきたが如何だっただろうか。私自身の拙い日本語ゆえに読みづらいところもあったかもしれないがこれが私の思う非リア充リア充を叩くべきでないと思う理由である。果たしてここまで読んだ人が何人いるかわからないが少しでも心に残るものがあれば筆者冥利につきるといったものである。

以上暇人非リアの戯言でした。

ポケモンGOにハマってしまった、倫理観を生贄に

ポケモンGO、皆さんも一度は耳にしたことがあるだろう。なんなら一度は入れたという人も多いかと思う。

ポケモンGOは2016年の夏にリリースされた人気アプリである。

さてそのポケモンGO、最近には月に一回コミュニティデイというイベントが開催されており、その日には多くの人が街にスマホを一心不乱に擦っているという珍しい生態が観察できる。

某千葉県の渋谷にあるM○DI周辺で人が集まっていたらほぼ間違いなくポケモンGOをやっている。


やってない人はこう思うだろう

気持ち悪いなぁ〜〜〜〜〜

ってね。



かくいう私もその人であったから否定をする気は無い。


ポケモンGOのためにこんなに必死になっている生物(笑)」


と言った具合である


そんな僕がなぜポケモンGOをやり始めたのか。


...



ある日のこと私は機種変更をしてiPhoneXRにスマホを変えた。

色々と前に使っていた6Sから進化しているらしい。
顔認証でロックが解除されたり、ホームボタンが消えたり。

そんな中で気になる文言を見つけた

iPhone史上、最も長持ちするバッテリー」

ホンマか?

そこでその疑問を晴らすべく選ばれたサンプルがポケモンGOであった。


なぜかといえば実はポケモンGO自体はリリース当初はやっていた。

流行っていたし運動のいいきっかけになればと思ったのである。

しかしポケモンGOというゲームはバッテリーの消費が尋常でない、位置情報を常に送信していくためかあれよあれよとバッテリー切れである。

そうして私はポケモンGOをやめた。


そして時が経ちiPhone史上最も長持ちなバッテリーが今ここに現れたわけである。

なるほど、テストにこれ以上の人材(アプリ材?)もおるまい。そうして私はポケモンGOを再開した。


...


ここでポケモンGOをやったことがない人のために軽く説明すると、ポケモンGOには"飴"という要素がある。

簡単にいうなら各ポケモンに対応した強化アイテムであり、基本的には1匹捕まえるごとに3個手に入り、進化やCP(本家で言うところのレベルに相当するもの)上げるために消費していく。

しかしこの飴、ポケモンを博士に送るという操作をする事でそのポケモンの飴を一個なぜか手に入れることができる。

もう一度言う、博士に送る事で"何故か"そのポケモンの飴を一個手に入れることができる。

おいおい。


おいおいおい。


一体なにがあったんだそのポケモンに。


また人間と同じくポケモンにも個性がある。個体値と呼ばれるが簡単に言うとバトルで「強い」か「弱い」かが表されたものである。


そしてコミュニティデイとはある特定のポケモン(大抵進化などで飴の需要が高いポケモン)が大量発生するイベントである。


察しのいい方々ならお気づきだろうがこのコミュニティデイただの惨殺祭りである。


...



先日土曜日そのコミュニティデイが開催され私も参加してきた。

今回の対象はワニノコと言われるポケモンである。

非常に愛らしい見た目をしており、こんなポケモンを博士に送り飴にするなど外道のやる行為である、断じて許されたことではない。

私は絶対に鬼畜博士になんぞ送ってやるものか。

可愛いなぁ

可愛いなぁ...

いや多くないか?


それもそのはずこのコミュニティデイ、尋常じゃないほどポケモンが湧く。

見渡す限りワニノコの大群である、これでもだいぶ捕まえて数を減らしている。

人間というのは不思議なもので過剰に供給されるとそのものに対し憎悪に似た感情を抱くようになる。

見渡す限りワニノコ

ワニノコ

ワニノコ

ワニノコ...

それは私の理性、倫理を超越するのに十分だった。

ワニノコに出会う→捕まえる→個体値を見る→良かったらキープ、ダメなら飴にする

この定型となった動き、次第に指の動きが最適化され次にどこをタップしてどこの文言を読むのか、節々の無駄がカットされ最短ルートで作業を終える。

そこにはワニノコに対する哀れみも同情もない。

ただただ選別していく、作業。

ついには個体値を見るのが面倒になり後でまとめて処理する事にした。

そこからのワニノコがこちらである




正直自分でも引いた。

このイベント次第は3時間行われているのだが私はそのうちその内の1時間のみの参加である。

それだけでこれほどの数のワニノコ(実際には面倒になってから溜め込んだのでこれ以上)が集まるのである。

そして...

飴になった。

しかし不思議にも良心は痛まない。

むしろやってやったと言わんばかりである。

こうして手元には選ばれた3匹のワニノコが100匹以上のワニ柱のもとで進化し生き長らえている。




あぁ。




どこかで博士のほくそ笑む様子が見えるようだ。




「所詮はその程度の価値だったんだ、結局はデータだし心に病む必要はないだろう?」






あっそろそろポケモンの孵化作業とかジム戦とかに戻りたいんで終わりますね。

本の話をするとしよう

人は何かしらの形で本を読んだことがあるだろう。それはもちろん現代文の授業でもよい。『こころ』でも『羅生門』でもよい。たとえそれが一部であろうと本を読んだという事実には変わりない。

 

しかし人生に影響を与えるほどの本を読んだという経験は少ないのではないだろうか。

 

 

もしこれを読んでいる人がその少数に属していないなら、「所詮他人が書いた本に影響されるなんてばかばかしい」と思ってもおかしくないかもしれない。僕もつい最近までその一人であったからよくわかる。だがそれは違う。

 

人生に影響を与える本は存在する

 

のである。

 

 

たかが本、されど本。

 

本には筆者の知恵、経験、感情が詰まっている。

慎重に言葉が選ばれ、内容を吟味し取捨する。

そんなある種の結晶が本と接する手のひらから、視神経を通じて情報として脳に取り込まれる。

 

テレビなどではよく美談として「恩師の一言が~」というように語られる。

 

一言である人生を変えるのであれば言葉の結晶たる本は人生を変えてしかるべきではないだろうか。

 

では一体私の人生を変えた本とはいったい何だったんだろうか。

 

...

 

その本は”NEO XISTT”

本の主人公は学生であった。

社会に適応せんとして人に合わせることで本音を隠し、親からも教師からも友人からもある程度の支持を持つある意味「勝ち組」に値する人間である。そのように平和な暮らし営み、そしてどこか面白みを感じられずにいた主人公の前に「自称神様」が現れる。その神様が主人公に働きかけることで徐々にあらわになる本音とともに物語は進展していく。

 

ここまで聞いて「ちょっと神様という設定が特殊なものの普通の小説じゃないか。」と思うかもしれないが、そうではない。そのちょっと特殊な「神様」たる存在が普通を普通ならざるものへと昇華させているのである。

 

神様であるが故の生命の軽視、無神経さが主人公の心を染めていく。

科学の存在を否定することなく、生命の起こりは科学であり神などではないという主張。

生命の誕生はその誕生する本人に関わらず他者の一身上の都合であるという思考。

死を決定的に恐怖付けるのは周囲の人間由来の道徳と倫理であるという「神様」によるささやき。

そんな中で生まれてきた自らの意思たる本音さえも隠すお前はいったいなぜ生きようと思うのかという問いかけ。

 

理由が存在しなくないか。

 

提示された主人公が神様によって組み替えられ存在しなくなっていく。

いったい自分が何者なのか、

ふとした不可解なことを組み替えることで思考の道筋を与えてくれる本である。

 

...

 

 

気づけばこの記事を書き始めてから2時間近くが経過していた。貴重な冬休みをまさかブログにささげることになるとは思わなかった。

そういえば”NEO XISTT”なんていう題名なのか、不可解ではないだろうか。

 

Anagrams Generator - Anagram Maker - Online Software Tool

 

少し組み替えたい気分になっただろうか。

 

答え合わせをしよう

 

こんな本は存在しない。

 

Not exist、文字通りであった。

 

存在しないものに冬休みをささげた一人の私に敬礼を。

 

今日も河合塾に行かねばならない。

 

冬休みなど存在しなかったのだ。

 

どうか皆さんは有意義な一日を。

年が変わるのでいろいろと振り返りたい気分になった

振り返ろうとした。

 

記事を書こうとした。

 

恥ずかしながら、私は自分語りがそこそこに好きである。

 

年賀状も書かず、テキストも放り投げ、PCに言葉を打ち付けようとする。

  

しかし、いざ筆を持ち(正確にはキーボードに手を置き)文章を、この一年の紀行文を書こうとするその手が打ち出したもの、それは

 

 

 そういえば、なにもねぇなかったなぁ

 

 

これである。

 

 

 

...

 

 

......

 

 

.........

 

 

 

は?

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今この文章をつづりながらつい口から言葉が漏れた。

 

しかしどうやら事実のようである。

(小一時間考えても思いつかなかったし)

 

理由はというと、こちらは少し考えたところで明らかになった。

 

 

 

何も残っていないからだった。

 

 

この一年が何も起こらなかった年とは言わない。

 

学校行事もそこそこやった

 

生徒会関係の仕事もした

 

友人と語らい

 

ふらふらと遊びに行き

 

彼女は...できなかったか

 

出来事だけを鑑みてみると、中身はさておき充実してそうである。

 

でもここに書き記すことはないのである。

 

何も残ってないから。

 

何をやるにつけても何となく、やるのである。

 

学校行事もみんなが必死だからやるのであって、自ら進んでやったかと言われれば疑問が残る。

 

生徒会の仕事にしたって、結局予算がこのままではまずいと言われるから解決に向かって進んだのであって自発ではなく受け身である。

 

 

これは結局、私という人間はこの一年をただただあわただしく過ぎるべき時の流れにのって、揺られていただけであった、ということを指しているのではないかとこの記事鵜を書いている今は思う。

 

この一年には達成感も感慨もなく

 

ましてや後悔や悔しさといったものもない。

 

ただただゆらゆら揺れながら流されていっただけであった。

 

...

 

 

.......

 

 

 

内容薄くない?

 

 

 

...

 

 

 

書くことがないという事実すらかけてないじゃん。

 

 

...

 

 

なにいい感じで締めくくろうとしてんだよ舐めてんのか。

 

 

...

 

 

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本年はお世話になりました。

来る2019年もどうぞ良しなに。

ブログ開設の理由と指針

Twitter、それは私の生活そのものである。

ツイートで呼吸し、TLを追うことで栄養を得る。果たして私はこの青い鳥に時間を捧げてきたのだろうか。一日中暇な時は取り敢えずTwitterという生活を送った私はいつしか数えることをやめてしまった。

 

 

ここまでで120文字程度である。Twitterであれば残り20文字、こうしている間にその文字数を使い切っている。

 

短い...短すぎる...

 

そう短いのだ、私の有り余る思いを、身の丈をぶつけるにはあまりにも。現にTwitterへの愛を叫ぶことすらも許されない。

こんなことがあっていいのか。

 

そんな時に出会ったのがこの"はてなブログ"である。

ここであれば(ブログなので当たり前と言えば当たり前だが)どんなに文字が多かろうと許される。そうとなれば私の筆も進みまくる。私の筆が舞い踊る姿はまるで美しいバレエを見るかの...いや私はバレエを観たことがない。

 

ましてや数式さえも綺麗に打ち込めるのだ使わない手はないと思ったのである。

e^{i\pi}+1=0

↑こんな美しくかけていいの?LaTeX最高!

 

 

 

そんなこんなでブログを活用していくことにした。これから自分が思ったことなどをそれこそ「徒然なるままに」書ければいいなと思っている。(正直なところ、自分が行ったところや参加したものについての感想をアウトプットできる場所が欲しかった、というのが主たる理由であるので自己満足になる可能性が高いが)

もちろん私の特性:飽き性によって今回限りになる可能性も秘めているわけだが、まぁご愛嬌といったところで許してほしい。

 

え?誰に需要があるかって?

 

...

 

...

 

...

 

 

 

うるせぇ!!!!!

 

Twitter→@hcn_ns,@llIlIIIlIllIl